世界と自分
本日大学の友人と飲んだ。
正確に言うと法科大学院のロースクール生と経済学部4年生と石川の東大卒山男と僕とで4人。
石川の彼は2日前にも誘ってくれたのだが、なんのきっかけもなく落ち込んでいた僕はだんまりをきめこんで無視をするという形をとった。それなのに平然と顔を合わせられるなんて、なんと僕は図太い奴なんだろう。厚顔無恥とはまさにこのことと思いながらも寛大な彼と対面した。
わざわざ石川から来てくれているのだからという気持ちもあったのかもしれない。
結果的にあってよかった。
ジムに行って卒論をしたりしなかったりツイッターをみたりネットをしたり。そんな変わり映えのない日々を過ごすだけの僕はただの筋トレに勤しむ卒論生だった。会う人といえばジム関係者か研究室の関係者だけ。そんな環境だと僕も環境に馴染む。朱に交われば赤くなる。
石川の彼はいつも大事な事は何かということを示してくれる。彼は口もうまいが生き方か図太い。本当にその生き方でいいのかということを彼の生き方が周囲に訴えかける。
僕は彼のそういうところを尊敬しているし、同時にそういうところが苦手だ。
日常に酔わされた僕は、僕にない物を持っている彼に嫉妬するし憧れる。
僕と彼の決定的な違いは自分を世界と相対化できているかというところだ。
多くの人は生まれてから死ぬまで人間のつくった枠組みの中で生きる。
ゆりかごから墓場までという物理的側面だけでなく精神面もそうだ。人間の作った観念にとらわれ続けると言ってもいい。
町で生まれ町で育ち都会で働き家で老いる。生まれてから死ぬまで人間の作った物に囲まれ続ける。たまに自然に触れることもあるけれど、それはいかなる形かでパッケージされた物でしかない。自然学校なんてまさにそうでプログラムの中で自然を感じたことはない。あれは自然体験ではなく集団生活の練習の側面が強い。誰かによって見せられた自然はもはや自然ではなく、ただのパッケージされた人工物だ。ありのままの自然、ありのままの世界、人間とは無関係に存在する森羅万象。それと対峙して初めて自分という存在が浮き彫りになる。逆に言えばその原体験さえあれば人工物に囲まれて生きようともその精神は世界を客観化する。
そういった体験をしてこなかった僕は人間の作った物理的環境に生き、人間の作った精神的環境の中で生きていた。こだわるのは誰かしらが作った価値観のなかで優位に立つことであり、その競争に勝利することこそが人生のモチベーションでもあった。でもその価値観は彼と会いわずかながらも自然に触れて変化した。そして自分にコンプレックスを抱き世界を相対化しようともした。でも行動力のない僕は真に世界と向き合う体験を得られず、人間の作った世界観へとまた埋没した。
世界と向き合い自分を世界と切り離す。
これこそが今の僕に一番必要だ。